さて本題です。ピンドラのラストカットが「愛してる」という事から
この作品がいかにして「愛してる」という言葉を
伝えたかった作品であるという事が明白になります。
でも「愛してる」って伝えたいなら、わざわざTVの24話も使う必要はありません。
1話の冒頭のカットに「愛してる」と書けばいいのです。その方が効率的でしょう。
ではなぜTVで24話も費やしてこの言葉を出してきたのか。
それは輪るピングドラムという作品が「愛してる」という言葉をただ伝えるのではなく
どう伝える、この「どう」に全てが集約されている作品だからです。
ではなぜこんなにもいろいろ費やして幾原監督はこの言葉を届けたかったのでしょう。
それは、少女革命ウテナの映像特典の幾原監督のインタビューにヒントがあるように思えます。
このインタビューでは、幾原監督が劇中で用いられるJ.Aシーザーの合唱曲について聞かれ
合唱曲の歌詞のシュールさに周りの反応が笑っていた事に対して
幾原監督が「日本人は日本語を嫌いなのではないか」という問題提起をしていました。
また「薔薇の容貌」という本の幾原監督へのインタビューでは
「日本人が相対的な言葉でしか物事を評価できない。」とも話していました。
これらの発言を私なりに解釈すると幾原監督は日本における日本語、ひいては言葉の力が
弱まっていると感じているのでしょう。それは「愛してる」という言葉に関しても
ただこの言葉だけを取り出すと一見陳腐にしか聞こえません。
また「愛してる」と伝えたいのがテーマというのも陳腐に聞こえる。
少なくとも私にとっては。他の皆様はいかがでしょうか。
でも幾原監督は陳腐に聞こえようが「愛してる」と伝えないといけない。
今の時代に必要なのは「愛してる」という言葉をきちんと力をもって伝える事なのではないか。
それが「輪るピングドラム」を作るモチベーションになったのではないでしょうか。
そして「愛してる」という言葉を陳腐な形では無く、言葉として力のあるものにしたいために
あれだけの表現とキャラクターと物語と設定と音楽を用意したのでしょう。
ここで、表現におけるテーマについてに語ります。
どんなテーマを伝えたいというのも表現にとって大事ですが
一方で、どう伝えるのかっていうのも、とても大事なポイントだと思います。
つまり「ピングドラム」は一見陳腐に見えがちな「愛してる」というテーマを
例えていうなら様々な回り道をしながら届けた作品なのです。
この回り道というのがドラマでありストーリーであり表現そのものなのです。
そして様々な紆余曲折があったからこそ「愛してる」という言葉が陳腐に聞こえない。
「愛してる」という言葉に力を感じる。ラストのカットを見て心を震わす事ができるのです。
逆にいえば、幾原監督がここまで作品作りにおいて回り道をしないと
「愛してる」って言葉が伝わらないと今の時代に感じている事でもあるのでしょう。
でも最後の最後に「愛してる」と言えた。伝えた。
つまり「愛してる」という言葉がこの作品にとって「絶対」になったのです。